2013年7月7日日曜日

入社二年時の日記

以下は別サイトに投稿した入社二年時のときの日記のコピー。

10月26日で入社して二年だ。

イチローの小学校の卒業作文を読んだことがあるだろうか?
それには成功へのプロセスが全て詰まっていた。

まず、プロ野球選手という「目標」

次に、今自分がやっている練習内容など、目標に対する努力をどれだけやっているかという「現状」

そして、現状における「反省点」「改善点」

さらに今後どうしていくかといった、「目先の目標」

というふうに、そこには成功に向けてのプロセスが全て書かれていた。それを小学生で完成させていたイチローはやはり流石と言うべきか。
彼を天才と呼ぶなら、努力の天才である。


余談ではあるが、彼は毎朝同じレトルトのカレーを食べる。
その味や満腹感などによる、わずかな違いを読み取り、彼は一日の自分のコンディションを知るのだ。

これが、イチローだ。
彼に天才という言葉は侮辱である。
天才とは努力をしない人をいう。故に馬鹿と天才は紙一重なのだ。


話を本筋に戻す。
入社して二年。俺の今の現状は。
ただただ初めてばかりの覚えることが山積みなだけだった一年目が過ぎ、先輩に言われたことを理解できるようになり、感知器の送り配線や、幹線の結線、配線の引き方、基礎は一通り覚えた。
点検においては、点検資格者免許も取得し、一通り定期的にいく現場も行き、ひとつ先の先輩と二人で任される機会も増えてきた。

JWCADで図面も書けるようになった。

しかし、わからないこともたくさんある。例えば工事なら俺はまだ受信機の結線はやらせてもらったことはないし、ドリルの使い方が下手である。裏BOXのない壁などにアンカーや壁内のスタッドなどに、固定するのはやったことがない。
やり直しが効かないだけに先輩任せになってしまうし、機会もあまりない。
練習しようにも事務所に穴を開けるわけにはいかないし、やはり一つ一つの機会を大事にしていくしかないだろうか。
自分では完璧に覚えたと思っていた送り配線も、つい先日間違えたばかりだ。
感知器が働かない上に断線検出しないという最悪のブランチ結線だった。
感知器の結線は、一箇所に線が集中すると、感知器の穴や内部に収まらなくなる可能性がある。無理に収めようとすれば、絶縁不良や断線の可能性も高める。

そうならないようにするのが、基本だが、改修工事ともなれば基本だけでは通用しない。応用だけでは今回のようなミスにつながる。

また、社員一人ひとりのやり方の癖も知っておかないといけない。

その場合、自分が理解しているだけではダメなので、普段からよく話し合って、また説明するときに困らないだけの情報を一度見たときによく見ておく必要がある。

もう、新人としての時期は過ぎたと思う。
今は覚えが早い。頑張ってる。と、言われても来年にはもう言われない。
言われてはいけないとも思う。

頑張るのは当たり前だし、当然俺だけではない。無償ではなく仕事なんだから頑張ってもそれを努力とは呼ばないものだ。

以上を踏まえた上で、どうしていくかが問題だ。
まず、自分の中にある新人の意識を捨て去る。

甘えや気遣いはもう必要ない。
先輩の指示に従うだけでなく、自分から意見をだし、同じ目線で仕事をする。
人が担当したところでも、自分で見るか聞くかして、常に俺がいる現場では自分が一番状況を把握しておくようにし、聞かれたときの答えと、修正や、変更があったときにはそれを誰から見ても明確な形で残しておく。
工夫と技術で出来るはずだ。


技術とは奥が深い。例えば字が上手いのも技術には違いない。
生まれたときから技術をもった人はいない。だからきっと出来るはずだ。
早く、綺麗に、確実に、誰が後から見てもわかるように、直すときに楽なように、この作業の大幅な底上げである。

覚えることは他にもたくさんある。
現場で覚えることの基本は終わっても、消防への提出書類作成や細かい打ち合わせなど、俺が出来るようになればずいぶん楽になるはずだ。

俺はいっぱしの職人で終わるつもりはない。
だから社長や先輩のできることは全て覚えていくしかない。

自分が今すべきことは山積みだし、まだわからないことだらけだ。

自己紹介4

少し時間をさかのぼり、専門学校卒業の少し前。
音楽仲間と俺は衝突し、家にも帰らず女の家から学校に通うような生活。

結局、仲間たちとは別れ俺はその女と結婚した。子供もできた。

携帯の番号も替え、だれとも連絡をとらずに新しい生活を送り、仕事は派遣でハウスメーカーの溶接の仕事に就いた。一年後には正社員となり、新しい仲間とまた音楽をはじめたりした。

趣味というにはあまりにも音楽にのめり込み過ぎだったかもしれない。
そのときの嫁からは不満が募り、喧嘩も絶えなくなり結婚生活三年であえなく離婚した。24歳のときだった。

それからすぐ、今の嫁さんと出会い、音楽も積極的に活動をつづけた。
そうして、音楽をようやく自分の趣味として一生遊べるおもちゃのように落ち着けるようになったときに二度目の結婚して、音楽にも自分なりのケジメをつけた。

それから嫁さんの実家の会社で働くために引っ越して、嫁さんの実家近くにアパートを借り、今も住んでいる。
今の俺の軸は仕事にある。
仕事が楽しくて仕方がない。

ちなみにラーメン屋でバイトもしてて、週に四日深夜まで働いている。

それが今の生活スタイルである。不満はとくにない。


以上が僕の今に至る経緯であり、僕という人物像である。
ちなみに湯田 一風呂というのは僕のアーティスト名Yuda.1.Blordからとっている。

自己紹介3

そんなわけで音楽活動もピークになった頃、俺の目標は自動車整備士から「音楽での活動」に軸を置くようになった。
学校も休みがち。呼び出しどころか自宅に先生がきたw

そのときの先生の言葉は今でも覚えている。「恩師の言葉」だ。

「別に整備士にならなくたっていいじゃないか。卒業したってまだ二十歳なんだぞ。どうしても学校に通えない事情があるならともかく、そうじゃないならとりあえず資格だけとって卒業したらいいんじゃないか。」

なんかすごく楽になった言葉だった。改めて書き出すと別にたいしたこと言ってねえなと思うんだけど、当時は俺は音楽やりてえから学校やめる!って言ってて、でもなんとなく決断にはためらっててダラダラ学校に行かなくなってみたいな感じだった。

それからはけっこう大変だった。足りない単位を補習で埋めるために毎日学校行ってみんな帰った後も残って受けた。補習には金が別途でかかる。親にも迷惑散々かけた。
にも関わらず、なんとか進級した次の年にも同じことを繰り返して、夏休みにも毎日学校いって資格とるために人生ではじめて本気で勉強した。一日10時間以上を半年以上続けた。

その甲斐あってか、後から結果だけみれば専門学校で取得できる全ての資格を取得。


履歴書だけ見れば、専門学校卒ということだけで、休みがちで補習100時間以上受けてたとかは書かれないわけだし、資格の欄には書ききれないほどの20以上の資格をもち、自己PRにも堂々と書ける。

履歴書だけではわからない人間性のいい見本だ。
結局のところ整備士にはならず、今の会社に落ち着いてるわけだが、やはり当時の先生には感謝している。
いざとなれば整備士として働く基盤を作れたわけだし、なによりも当時ものすごく勉強したってことは今の自分にとってものすごく大きな礎になっている。

卒業の日、先生は俺を抱きしめてくれた。
他人に抱きしめられたことなんて、あのときが初めてだ。涙がでた。

卒業後、四年制を選択した友人たちに会いにいくために卒業式の日にサプライズで会いにいった。
先生にも会った。
俺に会うなり満面の笑みでやっぱり抱きしめてくれた。そのときも涙がでた。

自己紹介2

それで、少し興味があった自動車整備士。
その機械科がある学校を受験した。

まぁ、五教科合計で120点もとれば受かるようなバカ高で不良校には違いないが、ほぼ丸三年授業なんか受けていない奴が受かるとこなんかそんなもんだ。

で、無事合格し、晴れて高校生となった。
その後もいきなり真面目少年になれるわけもなく、ギャングの真似事なんかもしつつ過ごすが、ガソリンスタンドなんかでバイトしたり、音楽が趣味になってそれなりに楽しく過ごしてた。

三年になって車の免許取って自分の車を買って、音楽のイベントなんかもやり始めた。

その頃まだ不良時代の友人たちと付き合いはあったが、もうつるんではいなかった。
それが気に入られないのはわかっていたし、俺はもう抜けたかった。

その後も自動車整備士になるために専門学校に入学し、ますます音楽にのめりこんでいった。

自分たちが主催のイベントも手掛け、俺はそのオーガナイザーだった。
そっちが忙しくて学校なんか二の次、三の次。

俺はもともと学校や習い事みたいなことは基より、教わることが嫌いらしい。
勉強嫌いかというとそうではない。

本は大好きだし、自分でいうのもなんだが努力家だ。
ただ教わるのは好きじゃない。

自己紹介

僕という人間はどういう人物かというと、小学生までは優秀な生徒として育ち、親バカな両親は医者か弁護士にでもなるのかと思っていたそうだ。
それが中学に入って不登校。とくにいじめられていたわけでも深い理由があったわけでもないが。

中三になって行きはじめたところで今度は不良グループの一人として、髪は金髪。眉なし。短ランにボンタンといった昭和か!とツッコミたくなるような不良少年だった。
でもまぁ、当時の茨城の不良中学生なんてまだそんなのが生息していたのだ。

高校に行く気もなく、ダラダラと退屈を悪行で埋めるような日常を過ごしていたときに番長格(死語)だった友人が逮捕された。鑑別所送りになり、出てくる日に家庭裁判所まで迎えにいったが結局、少年院送りとなった。

その日を境に頭を失った不良少年たちはバラバラになり、時期的にも受験のために塾に通いだしたりする奴まで現れた。
なんとなく行き場もなくなり、教室にいるようになった。

他の友人たちが高校を目指す中、俺だけはっきりしていなかった。
やりたいことも別にないし、一人で悪さする気もない。

でも番長格(死語)のやつは学校好きで、絶対無理だろうけど、高校に行きたがってた。
それも捕まったあとになっては無理が不可能になってしまったわけだが。

そこでひとつ。
俺も高校生になって驚かしてやろうかと思った。

もともと別に悪いことがしたかったわけではないのである。

はじめに

とりあえず、最初の投稿。
こういう風にしたいなと思ってもやり方がわからん。ので、とりあえず書いてみた。

まず、タイトルに仮とあるのは、仮タイトルというわけではなく、単に僕がまだ消防設備士ではないからであるw
試験に受からないからというわけではもちろんない。
まだ受講資格に経験年数が満たないのだ。まぁそれと試験に受かるかどうかは別問題だが。

で、とりあえずブログ開設というわけだが、入社したのは今から約二年半前になる。
僕の五つ年上の奥さんのお義父さんが経営する会社。一般には防災屋、職人用語では火報屋なんて呼ばれ方をする職業である。

消防設備ってのは一般的に、消火器や火災報知器、スプリンクラーや消火栓などだれもが必ず目にしている設備である。ここでは細かい説明は省く。(知りたい方はこちらから

その設備の点検及び工事が仕事である。
小さな会社だが、前にいた会社では感じられなかった遣り甲斐や達成感。勉強しても勉強してもわからないことだらけでこれが自分の一生の仕事だと感じてる。

お義父さんの運営する会社だからといって、後継する約束をしているわけでも婿にはいっているわけでもないので、どうなるかはわからないが、目標は社長になること。

男に生まれたからには仕事に生きがいをもって生きていたい。
そんなしがない男の記録である。